はなわが「佐賀県」を歌い始めた頃の話は、今でも語り草になる。
2003年、ベースを抱え、トレードマークのとんがり頭でステージに立ち、「SAGAさが〜♪」と歌い上げる姿は、当時のテレビ画面を鮮やかに彩った。
オリコン最高5位、約25万枚を売り上げたヒット曲は、彼を一躍全国区の存在に押し上げ、NHK紅白歌合戦への出場まで果たさせた。
だが、その裏側には、地元・佐賀県との微妙な関係が横たわっていた。
誇張された歌詞が生んだ反発
歌詞の内容は、田舎あるあるを大胆に誇張したものだった。
「子どもたちは歩きなのにヘルメット」「バス停の名前が『山下さん家前』」「鍵をかけない習慣」「出身著名人が公表していない」といったフレーズが並ぶ。
はなわ自身は後年、インタビューでこう振り返っている。
「とにかく売れるために、批判されることは全く意識せずにやっていました。
『田舎あるある』を『佐賀あるある』にして、嘘も交えて歌っていた」。
当時の彼は埼玉県生まれで、小学校高学年から佐賀で暮らした経験はあるものの、強い地元愛を抱いていたわけではなかったという。
批判の声が上がっても「尖ってて良いじゃん」くらいに考えていた、と本人が明かしている。
実際、佐賀県民の中には「佐賀はこんなんじゃねーよ」と不快感を示す人も少なくなかった。
特に注目されるのが、当時の県庁との関係だ。
弟のナイツ・塙宣之によれば、2015年に就任した山口祥義知事は当初、「あの歌は佐賀をバカにしている」と批判的な姿勢を見せた。
和解までに約1年を要したという。
さらに、リリース当時のはなわの両親が、当時の古川康知事に直接土下座して謝罪する目的で県庁を訪れたエピソードも残っている。
こうした経緯から、はなわ自身が一時的に県庁への出入りを控えざるを得ない状況に置かれた、との証言がラジオなどで語られてきた。
知事との関係と両親の行動
興味深いのは、初代の古川知事がこのネタに比較的好意的だった点だ。
PVにも共演し、むしろ積極的に関わっていた。
はなわの両親が土下座に訪れたのも、そうした複雑な空気の中での行動だったのだろう。
はなわは後に「両親が県知事に土下座したこともあったそうで…」と、年を経てから知った事実を confesse している。
売れるために必死だった若い頃の自分と、地元を想う親の行動のギャップが、本人に強い印象を残したようだ。
過激なスタイルから家族中心の活動へ
この摩擦は、単なる「地元ネタの失敗」では片付けられない。
2000年代前半のテレビお笑いシーンは、過激さや尖った表現が注目を集めやすい時代だった。
はなわ自身もデビュー当初は、股間をベースで隠した全裸状態で歌ネタを披露するような、かなり過激なスタイルを取っていた。
子どもが生まれたことをきっかけに、徐々に方向性を変えていく過程で、「佐賀県」は大きな転換点となった。
ヒットしたことで生活が一変し、紅白出場やCDリリースが相次いだが、同時に「地元を傷つける可能性」を強く意識せざるを得なくなった。
はなわは2011年頃に子育てのために佐賀へUターンし、家族と暮らした時期もある。
その後、コロナ禍の影響で再び関東に移ったが、佐賀への思いは年々強まっている。
「佐賀県にはもう本当に一生をかけて恩返ししなければいけない」と繰り返し語るようになった。
佐賀市プロモーション大使に就任し、県のPRキャンペーンにも積極的に参加。
弟のナイツ・塙とともに、佐賀を舞台にした兄弟旅行の番組にも出演するなど、関係は良好に変化している。
山口知事との和解後も、共演の機会が増えたという。
批判をバネにした成長
こうした変化の背景には、はなわ自身の内面的な成長がある。
売れるために嘘を交えて歌っていた頃の自分を「懺悔」し、「当時の僕はあまり気にしてなかった」と率直に認める姿勢は、単なる人気者の発言を超えている。
家族を中心に据えた活動にシフトした今、YouTubeでは家族の日常を自然体で発信し、視聴者の支持を集めている。
過激な全裸芸からベース漫談、そして家族の歌へと移り変わってきた軌跡は、時代のコンプライアンス意識の変化とも重なる。
最近、週刊文春が「エンタの神様」出演芸人にネタ禁止令が出されていた、との記事を予告し、話題を集めている。
はなわも同番組の常連で、「ガッツ石松伝説」を歌ネタ化した「伝説の男 〜ビバ・ガッツ〜」を披露するなど、大きな役割を果たした一人だ。
番組ではスタッフの校正が入り、ネタが大幅に修正されるケースも珍しくなかったと、複数の出演者が証言している。
ディレクターや作家が主導する形でネタが作られることがあり、芸人側が自分のオリジナルを出せない状況もあったという。
こうした番組の特性と、はなわの地元ネタが生んだ摩擦は、異なる文脈ながら「表現の制限」という共通点を持つ。
地元への恩返しという選択
はなわのケースで特に示唆的なのは、批判を受けた後の対応だ。
謝罪や反省を表面的に済ませるのではなく、実際に地元に戻り、恩返しの活動を続けている点にある。
牛丼屋「吉田家」を自らプロデュースして唐津市に開店させたこともあった(後に閉店)。
歌詞に登場する架空の店を現実のものにし、佐賀牛を使ったメニューを提供した試みは、批判をバネにした積極的な行動だったと言える。
現在のはなわは、芸歴30周年を迎え、著書を出版するなど、振り返りの時期に差し掛かっている。
「怖いくらい早く長かった」と語る姿には、紆余曲折を経た実感がにじむ。
過激な表現で目立とうとしていた若い頃から、家族や地元を大切にする現在までの道のりは、単なる成功物語ではない。
批判を受け、制限を感じ、それでも活動を続けてきた過程そのものが、彼の現在の魅力を形作っている。
「佐賀県」という曲は、今もライブで歌われる。
かつての誇張された自虐は、時間とともに「愛のあるイジり」として受け止められるようになった側面もある。
はなわ自身が「今ならわかる」と語るように、受け手の反応も変わってきた。
表現の自由と、地元や個人への配慮のバランスは、今も議論が続くテーマだ。
はなわの経験は、そのバランスを模索した一人の芸人の記録として、興味深い事例を提供している。
地元への恩返しをテーマに据え、家族との日常を発信し続ける彼の活動は、ヒット曲の裏側にあった摩擦を乗り越えた先に見えてきた景色なのかもしれない。
批判をバネに関係を修復し、積極的に関わる姿勢は、単なる「ネタの成功」を超えた価値を持っている。


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